神々への畏怖、感謝、五穀豊穣、邪気祓い、そうした願いが込められた踊りは、儀礼的な所作よりも、踊りによって眩いばかりの生命力を降ろすことで、演者にも観者にも純粋なゾーンのような力を授けるもので、まさに圧巻だった。
話を戻す。ITLF(岩手・ザ・ラスト・フロンティア)の名前に感じるめまい。それはフロンティアという言葉をどう理解すべきか掴めない戸惑いだった。ただその言葉には、蝦夷譚をはじめ史実には記されずとも連綿と続いてきたこの土地での暮らし、神々の住まう山とその際(キワ)にある里の人びとの生きざま、そうしたものを引き受けて今この時に現地で暮らす人びとの向かう先、これらに想いを馳せるゲートウェイのような意味があると仮置すると、遠野物語や鹿踊りから感じ取れる人の想像力の豊かさと同じように、僕にとっては腑に落ちるものがある。
確かにテクノロジーによって神々は殺され、今では神の住まう場所も狭く少なくなった。だが、かの地にはその土地習俗に垣間見える神の領域から、その場を体験した者のみに開かれる想像力や創造性があり、それは現代に蔓延する個人の存在に関する戸惑いを一蹴せしめるほどの可能性を持っているように感じられる。確かに自然は厳しい。かの地で生きることとは、その厳しさに身を委ねることであり、それこそ大地震も大津波も飢饉も豪雪も乗り越え生き抜くことなのだ。その厳しさに曝されながらも対峙し、一体となるような体験を経て成立してきたこの地の文化の現在地は、同じ景色でも太陽の光量や大気の湿度によって見え方が変わるように、訪問者である僕たちの現在地にも新たな視座を与え視点をピボットさせてくれる。
岩手は未だに何か開拓のフロンティア=最前線なのである。その開拓の対象となること、それは望む未来を描くフロンティアであり続けること、都市での退廃的な生活とは無縁の、生きることへのフロンティアの意味なのだと今では思える。仮に今後日本が南海トラフや首都圏直下型の大地震に襲われ太平洋側都市部・工業地帯が壊滅的な打撃を受けようが、デジタルネイチャー化が進んでひとが更にVRAR的世界に絡め取られようが、この地にはその自然によって、どこまでも身体性の問われる、ザラつきと潤いの競合する暮らしが残る。Uber Eatsは届かなくとも山の恵みはもたらされる。そこは技術進歩とはベクトルの異なる人間の進歩の最前線として、個人の内的成長を押し広げ、崩壊しつつある地域共同体の新たなデザインを進め、人を含めた自然のありのままを感じられる場所であり続けるだろう。